透明人間の告白


秋葉原の通り魔事件は、決して他人事ではない。
あの犯人と、僕を隔てるものは、なんだろうか。
そういう思いが、ぬぐえずにいる。
もちろんあの所業は許されるものではないし、許されるべきでもないが、
問題はその心情が「理解できるような気がする」点にあるのだ。
もし、彼との間に違いがあるとすれば、それはたんに「居場所」の有無に
過ぎないのではないか。


通り魔となった男は、「彼女がいれば」と語ったという。
しかし問題は、恋人の有無ではない気がする。
男は、居場所がないからこそ、最後の望みを「女」にかけたのではないか。
日雇い派遣で、自分の存在を肯定されずに生きることは、
僕には言葉にできないほど恐ろしい。
僕は仕事を言い訳に生きられるが、彼はそうではない。
この「差」は、果たして大きいのだろうか。それとも些細な違いなのか。


昔だって、壊れた家庭はたくさんあったのだろうと思う。
教育に長けていない親だって、いくらでもいたろう。
しかしセーフティネットとして、隣人が、町があった。
肯定してくれる誰かがいるかぎり、人は、生きていける。
だがそれを、いまの世の中で、本当に期待できるのだろうか。
自己責任という言葉で、大切な支えを切り捨ててきたのではなかったか。


僕はたまたま、多くの人に助けられてやってこれたのであって、
不運であれば、失意のうちに、日雇い派遣労働をしていたかもしれない。
そして、圧倒的な孤独感のなかを生きたかもしれない。
その姿をリアルに想像できてしまう恐怖を、世の中は本当にわかっているのか。
運・不運の違いで、貧者となるかもしれない社会を、僕は肯定できずにいる。
なにか、行動が必要なのかもしれない。テロのような非人道的な形ではなくね。