千秋楽


引き際が美しい人に、憧れる。
僕はどうにも尻切れトンボな感じで、自分自身の感情すら決着をつけないまま進んでしまうから、周囲から見ればそうとうに煮えきれない人間に見えることだろう。そういうときは、とてもだらしないな、と思う。飲み屋で、もう一杯だけ、と粘る酔客にも似ている。見ていて気持ちのいいものじゃないから、自分でもイヤになる。人生とは、何かに、けじめをつけていく作業なのかもしれない。そんな大人ぶったことが脳裏をめぐるが、そういうときはたいてい酒精にアタマがやられているときなので、相手にしないほうがいいかな。そういう意味では、舞台はとてもいい。これで終わり、という瞬間がはっきりしている。映画などは、のちのちまで同じ時間を鑑賞されるわけだから、終わりがない。永遠という言葉が似合う、とても安定したメディアだ。


話を戻すと、引き際なんて関係ないと思う瞬間もあって、横浜の工藤公康などはその好例かもしれない。あの年で、開幕してしばらくはやたらと打ち込まれて、さぞかし肩を落としているだろうと思っていたら、ここにきて勝ち星をあげてきた。尻切れトンボ、というか、上げ調子のない僕のような人生にとって、こういう話はとても勇気を与えてくれる。おそらく10代の頃には、感じなかったことだろう。それを老けたせいではなく、感性が磨かれたのだと信じたい。そのくらいの前向きさは、これからも、失わないでいるつもりだ。


村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に井戸の話が出てくるけれど、僕はきっと、自分の井戸を見つけられずにいるのかもしれない。じっとうずくまれる井戸がある人は、まだ幸せだ。多くの人は、途方にくれても、地表をさまよわなくてはならない。ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』を観ると、その諦念がよくわかる。だからこそ、どちらの作品も、僕にはひとしく傑作なのだけれど。


僕は歌う代わりに、話す代わりに、文章を書く。誰かに何かを伝えるためではなく、自分自身を保つための文章というものが、この世にはあるものだ。それはとても当たり前に思われるかもしれないけれど、あらためて、考えてみるべきじゃないかと最近は感じている。そういう意味では、僕は向上心に欠けるのかもしれないし、とても未来を感じにくい不器用な生き方をしているような気がする。頑固なんで、変えるつもりはないけれどね。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)