ギフト


英語の“gift”には、「天分、才能」という意味があって、おそらく「神様からの贈り物」ということなのだろうけれど、この考え方がけっこう気に入っている。


自分がもてる天分というのは、どうしようもなく決まってしまっているのであって、ハタチを超えて発揮できる能力というのはそう多くはない。もしかすると、僕には「ヴァイオリンを天才的に弾く才能」とか、「驚異的な砲丸投げ能力」とかがあったのかもしれないが、いまさらその技術を磨いたところで限界は見えているともいえる。そういう意味では、しかるべきときにしかるべき開花をしなかった才能は、天分とはいえない。映画『ライトスタッフ』で語られる“The Right Stuff”(己にしかない正しい資質)も、似たような空気をもった言葉だ。


20代のなかばまでは、自分にはいろんな可能性があるかもしれないと感じていた。この考え方は夢があるように思えるけれど、実際はけっこうしんどいことが多い。「あるはずだったかもしれない自分」を追い求めたところで、その自分にはなりえないのだから、現実との折り合いが難しくなってくる。当時はまだ自己表現欲求が強くて、「そのうち小説家になるんだ」なんて漠然とした思いを抱いていた。


でも20代も後半に入ったころ、自分にできることは少ないんだということにようやく気がついた。そして、自分にとっての“gift”とは何かを考えたところ、それは「文章力」にほかならなかった。僕の心は、小説を書くには薄っぺらく虚ろすぎたし、人に対する愛情も冷めている気がした。そのかわり、僕にはテクニックがあった。その事実は悲しいことだったけれど、心はずいぶんと晴れやかになった。もう、自分を偽る必要はなかったからだ。僕の文章技術を、高く買ってくれる人がいたのも幸いだった。求められる場所で、自分の才能を、正しく使う。たとえそれが時代錯誤な仕事であったとしても、誰かから求められるということは、それだけで尊いことだ。そのことに気づいたから、僕はいろんなことを、乗り越えることができたのだと思う。