反作用


コミュニケーションとは、とても物理学に近いのではないか、と思うことが最近多い。つまるところ、作用・反作用の積み重ねであるわけだし、強い力も、方向を間違えれば効果は薄い。


問題は、この物理法則を理解できるかどうか、だ。残念ながら、僕はその点で、わからないことが多すぎる。文章を書くことが怖い、と思うこともよくあるし、それは一種の絶望にも近い。それでも、なぜあきらめないのか。その答えを、僕はまだ出せないでいる。ただ、自分の書いた文章によって、誰かが、何かを感じることがあるのであれば、わずかながらも意義はあるのだと思う。


子供の頃から、自分の想いを表すのが苦手だった。それほど誤解をされてきたとは思わないけれども、確証はない。どちらかといえば天邪鬼だし、わかりにくい生き方をしてきたのかもしれない。そういうことが、このところ、ずしりとくる。


父の人生も、似たようなものだったのだろうか。父が他界する数ヶ月前、医師に止められている酒をあおりながら、それでも幸福そうだった姿を思い出す。あれから1年以上が過ぎ、僕もまた、ひとつ歳をとった。強がって生きてきた父だったが、心中は、寂しさもあったのだろう。だがその想いを、もう聞くことはできない。もっと一緒に酒を飲んでやるんだった、と僕は思う。過ぎ去った時間や、失ったものは、いつだって尊いのだ。


いろんなことを、ごまかしながら生きるのはたやすい。そう、人は思うかもしれない。でも本人が、自身をごまかしていると自覚しているなら、それは苦行にも似た毎日なのではないだろうか。僕は、自分の身近な人、大切な人には素直に生きてほしいと思うし、それだけは間違いなく本心だと思う。天邪鬼には、天邪鬼なりの信念というものがあるのだ。僕は、僕なりのやり方で、誰かを応援し続けるのだろう。それが、父から受けた作用に対する、反作用なのだと思う。