月光


胸の奥の空隙を埋めたくて、地下の店に入った。手足の動きが鈍い。一滴も飲んでいないのに、足がもつれるような感覚だ。厚い木の扉を体重をかけて引き、冷房の効いた室内に転がりこんだ。


うなぎの寝床のように縦長の店で、カウンターに10席。壁際には四人掛けのテーブル席がみっつ。全体が木目調で、飴色に鈍く光っている。突きあたりには、大型の冷蔵庫が2台並んでいた。中には、色とりどりの瓶が整然と列をなしている。


カウンターの一番手前に座っているのは、縁なしの眼鏡をかけたやせぎすの男だ。縞柄の白いシャツは洗い立てのようだが、少し皺が寄っていた。その後ろを通り、男からふたつ空席をつくってスツールに腰をおろす。止まり木に居場所をつくると、目の前にバーテンダーが紙のコースターを置いた。女だ。


アイラのシングルモルトを、水割りで頼んだ。女は少し舌足らずな調子で注文を受けると、迷いのない手つきで酒をつくっていく。童顔だが、どこか熟した雰囲気がある。この世界が長いからだろうか。夜の街に馴染みのない身では、推測は妄想の域を出ない。


水割りが置かれ、バーテンダーは店の奥にさがった。厨房があるのだろう。じきに、大蒜をいためる香りが漂ってきた。
一人で酒を飲むなんて、いつぶりのことだろう。ここ数年、そばにはいつも彼女がいた。うぬぼれかもしれないが、関係は良かったと思う。だが、仲が良いというだけで、すべてを理解できたはずもない。彼女の不在は、必然なのだと自分にいい聞かせてきた。


「はい、もうお勉強の時間はおしまい」


グラスから目をあげると、さきほどのバーテンダーがやせぎすの男に話しかけていた。男はカウンターの上に単行本を開き、ノートに文字を書き写している。耳が遠いのか、反応がない。バーテンダーがその手から万年筆をやさしく、しかし確たる意志で奪い取ると、男は眼鏡の奥で大きくまばたきをした。


「ああ、杏子さん」
「もう九時過ぎてるのよ。三時間以上もその調子なんだから。お店の迷惑も考えてよね」


男は二回うなずくと、本とノートをショルダーバックにおしこんだ。空いた場所に、杏子がパスタとフォークを並べる。男が皿をのぞきこむと、眼鏡が湯気でくもった。


「僕は、ナポリタンが好きなんだけどな」


意外と声が若い。三十代前半、もしかすると二十代かもしれない。髪に白いものが混じっているために年かさに見えるが、実際は青年といっていい年頃のようだ。


「昨日も、おとといも、その前も、ナポリタンだったでしょ。たまには違うものもつくらせてよ。私がナポリタンしかつくれないって、常連さんの間でうわさになってるのよ」
ナポリはイタリアの永遠の劇場だ。ナポリを見ずして、恋も、人生も語れない」
「わるいけど、あなたに恋愛のことでとやかくいわれたくない」
「おっしゃるとおり」
「それに、ナポリタンはナポリとまったく関係ない日本の創作料理でしょ」
「まったくもって、おっしゃるとおり」


男は降参、とでもいうように両手を挙げ、フォークで器用にパスタをくるくると巻きはじめた。球のようになった麺を、口中でほおばるのが好きらしい。


「なにかおつくりしましょうか」


杏子に問われて、グラスが空なのに気がついた。二人の会話に聞き入ってしまっていたようだ。照れ隠しに、鼻をかく。


「ああ、そうだな、たまにはカクテルでも飲んでみようか」
「ふだんはスコッチ派ですか」
「うん、友人が好きだったもので」


自分の言葉に、鼓動が早まる。彼女を友人と呼ぶのは、嘘になるだろうか。


「ムーンライト・クーラーがいいよ」


突然、男が会話に割りこんできた。幸福そうな表情で、グラスから透明な液体を喉に流し込んでいる。


「ちょっと、いきなり失礼でしょ」
「爽快で、この季節にはぴったりだもの」


男はいまにも口笛でも吹きそうな調子だ。自分のアイデアにほれぼれしている、と見えなくもない。しかしそれが、沈みかけた心を愉快にさせてくれた。


「よし、じゃあそれをもらおうか」


杏子は愛想よくうなずいたあと、男のほうを軽くにらみつけた、ような気がした。クラッシュアイスを敷きつめられたグラスに、炭酸の入ったカクテルが満たされる。


「ムーンライト・クーラーです」


ほのかな甘みと炭酸が、口の中を洗い流してくれるようだ。


「かすかに、リンゴのような味がしますね」
「ええ、カルヴァドスというリンゴでつくられたブランデーを使いますので」
「でも、どうして彼はこのカクテルを勧めたんだろう」


視線を向けると、照明の加減だろうか、男の表情が引き締まったように見えた。


「あなたが、難破しかかっているように見えたもので」
「難破、ですか」
「なにかを失いかけているような。杏子さん、カルヴァドスの産地はどこですか」
「フランスのノルマンディー地方よ」
カルヴァドスの語源は、ノルマンディーの沖合いでエル・カルヴァドールという船が難破した故事に由来するといわれています」
「ずいぶんと、詳しいんだね」
「本の受け売りです」


男は恥ずかしそうに答えた。なぜか、杏子が心配そうな表情で見守っている。


「すみません。でも、人の心は月と同じだから、このカクテルを飲んでほしかった」
「どういうことだろう」
「人間は大切なものを失ったとき、心がからっぽになったように感じますね」


ずきり、と胸が痛む。


「でも、心はからっぽになんて、なっていない。一時的に見えなくなっているだけで、本当は豊かな宝物が眠っている」
「よくわからないな」
「月は満ち欠けをします」
男はグラスに指を入れて濡らし、カウンターに円を描いた。
「満月は欠けていき、三日月となる」
指先が三日月を描き出す。
「そして、消え去る。新月です」
掌で、月をかき消した。
「さて、月は消滅したのでしょうか」
「いや、月と地球の位置関係が変わり、太陽の光を受けなくなっただけだ。あるべきものが、見えなくなったにすぎない」
「ご名答」


男はスツールからおり、鞄を肩にかけて近づいてきた。隙間から、本の背表紙がのぞいている。ガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』。


「あなたがなくしたと思っているものを、探しにいきましょう」
「しかし、なぜ」


あっけにとられていると、思いのほか力強く手を握られた。握手のつもりだと気づいたのは、数秒後だった。


「僕も難破しているからです」
「いったい、君は」
「ああ、自己紹介が遅れました。僕は多田幾郎。元・小説家で」
「いまは探偵」


杏子は盛大なためいきをつき、天をあおいだ。